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 人文史跡

東晋時代、中原から災害や戦禍を逃れて金門にたどりついた人々が住みついて、農耕に従事するようになってから、千六百余年がたちます。このように開発が早かったので、金門は、歴史的流れが長く、豊かな文化を育んで来ることができました。住民は福建の泉州、漳州の二州からの移民が多く、建築や風土民情は福建、アモイの伝統を受け継いでいます。そして、四十年にわたる軍事的管制で、都市化のテンポが遅かったため、豊な人文史跡を保存することができたのです。

金門国立公園の豊な人文史跡は、歴史的古跡や伝統的集落の建築物によく表れています。

金門地区の古跡は合計三十三箇所あり、その内の十一箇所が、金門国立公園内にあります。瓊林蔡氏祠堂、水頭黃氏酉堂、文台寶塔、虛江嘯臥碣群などの四箇所は二級古蹟、漢影雲根碣、振威第、水尾塔、邱良功墓園、瓊林一門三節坊、蔡攀龍墓、海印寺石門關などの七箇所は三級古跡に列せられています。

振威第

振威第

【 級 別 】 第三級
【 類 別 】 邸宅
【 位 置 】 金寧郷古寧村北山二十一号
【創建年代】 清乾隆五十四年―乾隆五十九年(1789―1794年)

嘉慶二十一年(1816年)、広東水師提督に任じられた李光顕は、金門古龍頭の人で、字は隆武、号を鑑亭といい、清乾隆二十二年(1757年)九月二十五日出生、嘉慶二十四年(1819年)八月二十七日歿、享年六十三才でした。
言い伝えられるところによると、李光顕は若年のころから腕力が強く、体つきも威風堂々としていて、金門遊撃署の兵士とよく取っ組み合いをしていましたが、負けたことがなかったということでした。乾隆四十二年(1777年)、李光顕二十一才、軍の人や兄などに勧められて軍隊に加入、実直で温厚な人柄と勇敢に全力を尽くして戦った功績が評価されて、地位は最下位の金門鎮標右営外委から一品武将広東水師提督まで上りつめたのです。李光顕六十才、嘉慶二十一年のことでした。
ちなみに、李光顕が転戦した地は金門、澎湖、福建、浙江、広東などの南東沿海地方をカバーし、四十数年の軍旅生涯の中で、参加した戦役は数え切れないほどありましたが、比較的重要な戦績は、台湾林爽文の乱の平定に参加したことと、名将李長庚、邱良功などに従って海賊蔡牽とその一味を討伐して、南東沿海に平和をもたらしたとで、両広総督阮員曾はその功績をたたえて、「海邦著績」と題字した額を贈って表彰しました。

古寧頭水尾塔

古寧頭水尾塔

【 級 別 】 第三級
【 類 別 】 その他
【 位 置 】 金寧郷古寧国民小学校の南側
【 創建年代 】 乾隆三十二年(1767年)

古寧頭水尾塔は、古寧頭水辺の湿った低い窪地にあり、李氏家系図の記載では、二百三十年ほど前に作られたとあります。
古寧頭は血縁集落といえ、住民は李姓の人が多く、明成祖永楽元年(1403年)、李氏の祖先(李永祥)が初めてこの地に定住して、子孫を増やし、大家族を形成していったのです。
古寧頭は水辺に近く、魚塩の利に富み、山林は水が豊富で、土地も耕作に適していましたが、清の乾隆年間、古寧頭の長老が、明の時代を通じて、金門島では科挙に受かって任官した人がかなりいたのにもかかわらず、古寧頭村からは一人として赫赫たる名声を有する人がでなかったのは、古寧湾の潮の満ち干の差が大き過ぎて村の発展を妨げているためとして、今の北山「下店」外にこの石塔を築き、これによって、水を集めて財を成すと同時に、水路からの厄をはらい、村民の無事息災、発展を図らんとしたのです。こうして見ると、この塔は、地理占いの信仰による塔といえます。

文台古塔

文台古塔

【 級 別 】 第二級
【 類 別 】 その他
【 位 置 】 金城鎮古城村金門城南磐山南端
【創建年代】 明洪武二十年(1387年)

金門には、三大古塔があります。その一は、太武山の倒影塔で、その二は、水頭村の矛山塔、その三は旧金城の文台寶塔ですが、それらは、すべて明洪武二十年(1387年)、江夏侯周徳興が金門城を建てた時に、水陸の形勢を勘案して、作ったと伝えられています。
しかしながら、太武山の倒影塔は、1918年の大地震で壊れ、水頭村の矛山塔は、軍事的な理由から、1961年に壊され、今では残るところ旧金城の文台古塔のみとなりました。

水頭黄氏酉堂別業

水頭黄氏酉堂別業

【 級 別 】 第二級
【 類 別 】 邸宅
【 位 置 】 金城鎮金水村前水頭五十五号
【創建年代】清乾隆三十一年(1766年)

水頭村の住民は黄姓の人が多数を占めています。泉州開元寺建設資金を拠出した黄守恭紫雲衍派に属し、金水黄氏の開祖黄輔は、字を仲卿といい、元朝廷佑二年の乙卯科進士でした。
水頭「酉堂」は、自称十八本マストの帆掛け船を有する船王の黄俊(清康熙四十一年出生、乾隆四十八年歿)によって建てられました。

邱良功墓園

邱良功墓園

【 級 別 】 第三級
【 類 別 】 陵墓
【 位 置 】 金湖鎮小径村湖字第49560地号
【創建年代】清嘉慶二十四年(1819年)

邱良功は金門後浦の人で、勇猛果敢の軍人でした。外委、把総、千総、守備、遊撃、参将、副将、総兵と勤め上げ、浙江提督までなった人です。
嘉慶十四年八月、邱良功は漁山外洋で、海賊蔡牽を包囲討伐していましたが、日暮れ時になっても決着がつかず、敵が夜の闇にまぎれて逃げてしまうのを恐れた邱良功は、自分の船を敵の大船にくっつけて戦い、手傷を負っても退去せずに戦い続けたので、敵は遂に弾丸尽きてやむなく船を打ち砕き船とともに海に沈むことを余儀なくしました。この戦いで、一代の大盗賊蔡牽は滅び、邱良功は三等男爵に叙せられました。嘉慶二十二年、邱良功は皇帝謁見に赴きましたが、道中で逝去し、建威将軍の謚を授けられました。

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