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 伝統的集落

伝統的建築文化は、金門国立公園のもっとも豊かな文化資産です。欧厝、珠山、水頭、瓊林、山后、南山、北山など、七つの代表的な集落は大部分が、漳、泉様式を維持した伝統的な南福建式建築で、煉瓦、石材などの資材の運用から建築の装飾的表現、または、平面上のアレンジに至るまで、すべて変化に富んだ金門独特の地方色と芸術的生命力を具現しています。

歐厝

歐厝

歐厝は金門の南西部に位置し、南東に海、北東に金陽山という地理的環境にあります。欧陽氏が主な宗族で、明朝の中葉に移住したものです。

歐厝に今も尚見られる建築の多くは、清朝の道光皇帝時代に建てられたもので、中央を横切る街道によって上社、下社に区切られています。上社は祖廟、愛華小学校、順天商店と邸宅群が主で、多くの「隘門(小さい門)」と塀によって共同の空間区域が区切られ、防御性の高い建築群の組織的特色を表わしています。また、ジグソーパズルの方式で、建築物の壁面に各種の風景や図案を構成し、モザイクで建築物を装飾するというのもその独特の風格です。

下社には四列の建築群があり、血縁やファミリ別に住み分けていて、櫛式配置の特性を十分に表わしています。建築の壁は花崗岩を使い、窓は小さく、路地には今でも昔使っていた地下水を汲み上げるための手動式ポンプが見られ、古風な素朴さの満ち溢れているのが感じ取れるところです。歐厝は環島南路の沿道にあり、3号バスで行けます。

珠山

珠山

やさしさ、静けさ、親しみ、これが珠山の人に与える印象です。珠山集落は金門の南西部にあり、元正年間、難を逃れて来た薛氏がこの地を発見して定住し、宗族となりました。

集落の周りは山によって囲まれ、樹木が鬱蒼としています。そして、後ろに鶏鞍山、中央に深い大池、「四方から水が池や穴に流れ入る」という富貴の相を具えています。また、地形の関係で、珠山の建築は単一の方向には向いておらず、祖廟を中心にして周りの緩やかな斜面に建てられ、すべて中央の大池に面しているのです。これは冬には風を避けることができ、集、排水にも利します。さらに、水(財)が流れ入るという象徴的意味合いもあります。薛氏祖廟前は広い広場になっていて、集落の中心としての効果は十分です。要するに、集落全体が周りの自然環境と一体に溶け合っていて、珠山建築の特色となっているのです。

薛氏祖廟後方の鶏鞍山は、中華民国の時代になった後、、珠山公園として開発されましたが、今ではさらに登山歩道とあずまやが整備され、珠山集落全体の美しい景観を眺望することができます。珠山は環島西路の沿道にあり、3、5号バスで行けます。

水頭

水頭

水頭の人が水頭のことを紹介する時、前口上に「水頭ほど富んでいるところはあっても、水頭ほどの家のあるところはない」といいます。水頭は、金門の南西部に位置し、海岸線に沿って展開するなだらかな斜面の台地に臨んでいます。黄姓の人が元の時代に戦乱を逃れて同安から移り住んだのが最初で、その後に、李姓、蔡姓、陳姓の人々が続いて、複数の姓の宗族の集まった村落となりました。

水頭の村落は山に依って建てられ、住民が農業、漁業に従事していた頃の南福建の伝統的建築や、清朝末期から中華民国初期にかけての華僑送金による洋館群など、各々異なる時期の異なる特色を備え、ユニークな地域風格を形成しています。

また、頂界の十八棟は清朝の乾隆皇帝時代、水頭が大陸と各地特産の商いをして得た収益で建てられたもので、整然と配列した櫛のような配置になっており、 金門現存の計画的に建てられた集合的建築では、もっとも早期に属するものでしよう。

酉堂別業は、清朝の乾隆三十一年、当時の金門切っての金持ち黄百万と称せられた黄俊が建てたもので、前には「日月池」、後ろには山という造りは、金門で唯一の庭園池のある建築、第二級の古跡に列せられています。

得月楼と金水小学校付近の洋館群は、清朝末期から中華民国初期にかけて、南洋で商いによって財を成した村民の送金で建てられたものです。その中で、黄輝煌の建てた得月楼には村全体を守るために銃器がしつらえてあり、ここからは地下道を通って隣接の建物に行くことができ、緊急防御の需要に対応することができます。得月楼の命名は、宋の詩人蘇麟の詩句「近水楼台先得月(水辺の楼台は真っ先に月が照らす)」に由来するものです。

金水小学校は、教育の重要さを感じた水頭の村人が、村から南洋へ商いに出向いた華僑を対象に寄付を呼びかけ、十数年の募金活動を経て建てたもので、格式がユニークな造りになっています。講堂を中心の独立した空間に、両側に教室を建て、回字型の配置になっていて、当時の金門には珍しい規模最大の学校建築群です。水頭は金城から七号バスで行けます。

瓊林

瓊林

瓊林伝統的集落は、金門島の中央、太武山西側のふもとに位置し、金門の代表的な伝統的集落の一つです。昔はこのあたりに樹木が多かったことから、「平林」と呼ばれていたのですが、明の時代に、当地出身の蔡獻臣という人が朝廷で任官し、時の皇帝から「瓊林」という名を賜わったのが、今日まで続いたものです。

瓊林は早期に自然に出来た集落で、八百年以上の歴史があります。集落の配置は祖廟、家廟を中心に、地形、地勢に沿って秩序よく排列して拡張して来たもので、自然且つ厳密な防御的配置になっています。

明朝、清朝時代、ここから科挙に受かったものが多かったことで、集落内ではあちこちに華麗な燕尾の装飾をほどこした官吏の住宅を目にすることができ、家廟の中には、「文魁」「五世登科」「兄弟文魁」などの科挙合格をたたえる扁額がところ狭しと掲げられています。家廟は各ファミリに属し、いずれも見所があり、怡穀堂や風獅爺などは、第二級の古跡に列せられています。

金門は古寧頭戦役、八二三砲戦を経て国民皆兵となり、民衆による自衛隊も組織されましたが、瓊林ではさらに、1977年、地下に四方八方に通じる坑道を掘り、村長事務所を指揮センターに、十二個所の緊急用出口のある防御網を、完成しました。今では、村長事務所でチケットを買い、中へ入って参観することができるようになり、その出口から北方風獅爺まで約十分の道のりです。瓊林伝統的集落は伯玉路と環島北路の間にあり、2、5号バスで行けます。

山后

山后

山后は金門の北東部にあり、北は獅山、西は五虎山に接し、東は海に面しています。住民は王姓や梁姓の同族が主です。

一般に「山后民俗文化村」と呼ばれているところは、山后中堡にあります。これは、清同治皇帝の時代(十九世紀末)に、日本へ商いに行って財を成した王氏一族の王国珍という人が出資、中国の建築士を招いて建てたもので、一族の人が全部いっしょに住めるよう設計されています。建築は居住用のが十六棟、学習塾用と祖廟用のが各一棟、総じて十八棟、「十八棟」とよばれているゆえんです。そして、使われている建材はと言うと、主に漳州、泉州から調達したものですが、遠くは江西省からのもあり、費やした時間は二十五年、整然とした精緻な建てかたになっています。

I979年、金門県庁はこれを修繕復元して「民俗文化村」とし、さらに、馬小屋、垣根、アーチを増築して、一部分の民家と祖廟とともに六つのテーマ館と一つの古風な官吏の住居を再現しました。これは、金門で企画、修理を経て整理されたもっとも完全な伝統的家屋の区域といえ、今では、財団法人王氏基金会の管理の下にあります。山后は、沙美駅からバスで行けます。

南山、北山

南山、北山

南、北山と林厝を合わせて古寧頭といい、金門の北西端に位置しています。住民は明朝初期、靖難の変を避けて古寧頭に移住した李氏の子孫が多くを占め、当地の名門になっています。

南、北山は、金門でもっとも開発の早かった集落の一つで、緩やかな斜面に、水辺に平行して建物は配置され、双鯉湖を隔てて相対していて、「双鯉風水」と称せられています。伝統的建築は、大多数が明朝末期から清朝初期にかけて建てられたもので、古寧頭の戦役、八二三砲戦の戦火で、弾丸の痕も生々しく、北山洋館はその中でもっとも有名なところです。

北山にある振威第は、清朝の提督李光顕の住宅だったところで、村人はこれを「提督公邸」と呼んでいます。清朝の乾隆皇帝時代に建てられたもので、やたらに彫刻などで飾り立てない素朴な造りですが、厄払いのために、裏塀に作られた彫刻は技法の精巧さ、造形の勇猛さにおいて、金門では並び得るものがなく、第三級の古跡に指定されています。

古龍頭水尾塔は、海辺湖畔の窪地に建てられた四方形の「風水塔」で、四面の壁に「仏、法、僧、宝」の四字が刻まれていて、第三級の古跡に指定されています。

北山双鯉湖畔にある風獅爺は、古寧頭集落守護のために作られた花崗岩の彫刻で、南山集落にある三眼井は、民衆の生活および文化活動の場です。南、北山は環島西路にあり、金城駅から10、11号バスで行けます。

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